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上野国白倉(群馬県甘楽郡甘楽町白倉)の豪族であった白倉氏の城、麻場城と仁井屋城の二城からなり、麻場城は首部の本城であり、仁井屋城は尾に当たる支城である。双頭の蛇構えとなっている。
(左図は、城跡に甘楽町により設置されている案内図)
下図左側が麻場城、右側が仁井屋城
北側
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城の南側、白倉川(小野瀬川)に接している場所に、「一丁屋敷」と呼ばれていた住居としていた屋敷跡がある。その敷地の古井戸から、使用していたと思われる金覆輪冬瓜絵巻の乗鞍・銀象の鐙と轡などが発見されている。
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<白倉(しらくら)氏の出自>
白倉氏は、武蔵国の古き豪族「児玉党)の出自であり、上野国甘楽郡白倉に拠った戦国時代の武士で、関東管領「山内家上杉氏」の重鎮として四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)に数えられていた。
承久3年(1221年)承久の乱において討死した白倉成季(白倉三郎)から白倉氏を称し、足利氏に従い山内上杉氏の家臣となり、白倉道佐の代においては、上杉謙信の鎌倉での関東管領就任の儀式に側近として付き添ったと記録あり。(甲陽軍艦)(注2)
その後、永禄6年(1563年)武田晴信(信玄)の上野への侵攻に伴い箕輪城(上野長野氏)攻めに支えきれずに武田氏に従うこととなる。
武田氏に従っては、子白倉重家と共に戦いに加わった。(甲陽軍艦)
また、家督を嫡男重家に嗣、出家して自徳斎道佐、小幡道佐とも名乗った。
(生島足島神社起請文(注3))
なお、白倉道佐は、天正8辰年(1580年)合戦にて死亡している。(注4)
その後、武田氏の滅亡(天正9年、1581年)によ白倉重家は織田家の家臣滝川一益に従うこととなったが、織田信長の本能寺での死亡により、北条氏の侵攻を受け神流川の戦いで敗れ滝川一益が伊勢に逃れたため、北条氏直に従うこととなった。(天正10年6月、1582年)、 その8年後の天正18年(1590年)豊臣方の小田原征伐において、弟白倉重高を白倉城に残し城を守らせ小田原城に籠城したが、北条氏滅亡に伴い、白倉の所領を失い没落してしまった。
白倉重家には男子が無く、養子清佐(村上義清の子、国清(注5)の子)を迎え家系を紹がしめ、共に小田原に籠城していたが、小田原城落城により所領を失い白倉城を去ることになった。
重家及び清佐は出家するとともに、浪人(農士)となり新屋に居すこととなる。(注6)
白倉城は、小田原攻め北軍の前田利家の幕下となる。
<八重原への路>
しかる後、清佐の子白倉常清は(1583年生まれ:没落7年前に誕生)余地峠(注7)を越え田口邑経由で中山道を上り、明神沢の水が利用できる八重原に新天地を構えた。(田口邑経由・・は北佐久郡誌の記載を引用した。)
以降、当地において、常清・助左衛門・作助・権之丞・助左衛門・助左衛門・蔦右衛門(これ迄江戸期)、喜作・惣次郎(明治・大正・昭和期)と受け継ぎ現在に至っている。
白倉一族は、大日堂を1651年に開基して僧侶を迎え(幕府による寺の統合実施まで)八羽示之郷山崎村を興し、一族により現在も維持管理いしている。 (現在長野県東御市八重原)
<大日堂>
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<参考 注釈>
参考(注1)児玉党とは、平安時代後期から鎌倉時代にかけてで割拠した武士団。主に武蔵野国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。
参考(注2)長尾景虎相州小田原へ発向之事」に景虎ハ山の内より、大石・小幡・長尾・しら倉四人の侍大将きんぺんにつれ・・景虎くわんれいに成り、・・と記されている。
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参考(注3)永禄10年(1567年)武田信玄が武将達に提出させた生島足島神社起請文に小幡親戚中の一員として「自徳斎道佐」の記名・花押・血判があり。
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参考(注4)彦根藩井伊家文書(上野国下之城主和田昌繁から上野の国字侍佐藤十や宛に出された文章)によると「追而白倉うち志ふひんにて候さいしにねん比あるへく候」と死を伝えている。
これは、天正7年より小田原北条氏と武田勝頼による東上野(現在の前橋・沼田など)の取り合いの戦いで有り、ひろき大仏筋との戦いの先方として出陣して戦死したもので有る。(甲陽軍艦品第54条参照)
参考(注5)国清とは、義清の子で信濃で敗れ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った折り、景虎の猶子となり上杉氏一門の山浦氏を継ぎ山浦景国と名乗り、正室に景虎の養女(朝倉義景の娘)を娶り上杉氏の家臣となる。
参考(注6)新屋に居した。記録として、寛文4(1664)年に将軍家綱から織田信久に与えた朱印状「甘楽郡の内36ヶ村領地書」に上下白倉村名主白倉喜左衛門 一石九百八十三石三斗五升七合と記されている。
この、喜左衛門とは白倉重家・清佐が最初に名乗り、以降の代も名乗っていた。(一説には、清佐の子に道治、源右衛門、二井屋に居すとある。この道治は重家の弟重高(重治)の子との説もある。)
また、所蔵している八重原御百姓系譜(江戸初期より明治までの系譜)には、白倉常清の出自は「甲州浪士白倉喜左衛門より」と記されている。
参考(注7)武田信玄が上野国を侵略する軍用道路として使用し、江戸時代を通じて上野国と佐久の間の交易路として用いられ、明治以降も北にある田口峠を越えるルートが整備されるまでの交易道であった。(甲陽軍艦参照)
(浪士(ろうし)とは、武士であった者が、戸籍に登録された地を離れた者のこと)
白倉一族系図
清和源氏(清和天皇(859年頃から878年頃)
貞純親王 清和天皇の子
源 経基 清和源氏の祖、子に嫡子 満仲(頼朝系) 次男 満政など
源 満政 検非違使、左衛門大尉、鎮守府将軍などの官を勤め、尾張へ勢力伸ばす。
源 重直 尾張源氏の祖(母は源義家女)として尾張国河辺浦野・ 山田郡などへ 勢力を拡大する。号を山田氏・浦野氏を名乗る。
源 重光 美濃の国へも勢力を拡大する。美濃源氏の祖(妻源行家娘) しかし治承5年(1181年)の墨俣川戦いで敗戦、頼朝へ身を寄せ家臣となり 号を山田太郎(重澄)と名乗る。治承6年3月6(1182年)白倉邑を与えられ 地頭となる。 (現:甘楽郡甘楽町白倉)・・吾妻鏡
なお、尾張美濃の源氏一門は墨俣川の敗戦により勢力が縮小したことと頼朝と距離を置く姿勢から粛清されて失脚してしまう。
白倉氏の興り
白倉邑においては、児玉党秩父氏三郎成季(室は重澄二女)が嗣ぎ、居住地名の白倉を冠して白倉氏を名乗り、新たに武蔵野国児玉党白倉氏を興した。
白倉成季 秩父氏から秩父三郎成季が重澄二女を室として白倉邑へ入る。これより白倉(しらくら)氏を名のる。
承久3年(1221年)承久の乱において北条氏に従い戦い宇治川にて討死(同年6月14日)
白倉成氏 成季嫡子、麻場城を築く。山之内上杉氏家臣となり、以降成宗、重氏、重行、重 道と上杉氏 に仕え、上州八家(小幡氏、安中氏、倉賀野氏、桐生氏、由良氏、山上氏、沼田 氏、白倉氏)の一人に数えられていた。
白倉定基 白倉肥後守 上杉房顕に仕える。
白倉通基 白倉周防守 上杉清方に仕える。
白倉重基 白倉三河守 上杉憲房に仕える。
白倉重佐 白倉五左衛門 上杉憲房、上杉憲政に仕える。
関東管領山内上杉憲政の重鎮として四宿老(長尾氏、大石氏、小幡氏、白倉 氏)に数えられていた。
白倉道佐 (白倉五右衛門)小幡氏重臣でもあり小幡道佐、出家して自徳斎道佐と名乗る。
上杉謙信に仕え、謙信の関東管領就任儀式には、側近として付き添う。しかし武 田 氏の箕輪城攻めに支えきれず武田晴信に降りその後武田武将として各地で参戦 した。(武田氏への起請文に小幡親戚連合の中に自徳斎道佐・花押・血判あり。 武 田勝頼に従い、天正8年(1580年)3月17日東上野の北条氏とのひろき大仏(現在 前橋市付近)における奪い合い戦いにより戦死した
<追記>
(法名白倉院殿天漢道佐大居士の墓石が一丁居館近くの川端地籍に現存しているが、 死亡年号等に疑問点あり、かつ晩年は自徳斎道佐と名乗り隠居したと記している文章がある が、前記の通り早くから自徳斎を名乗っており、また前記の記録(彦根藩井伊家文書)とも符合してな いことから、墓石及び記載文章とも疑問である。
白倉重家(白倉宗任) 父道佐と共に武田晴信及び勝頼に仕えた。
武田氏滅亡により織田方滝川一益に従い、神流川の戦い参戦したが北条氏直に敗れ た。重家には子が無く、弟重高の嫡女に村上義清の六男国千代(幼名)を養子に迎え元服し清佐と名乗る。後、孫白倉常清が没落7年前1583年に生まれる。
その後、北条氏に従い小田原城にて籠城したが、北条氏が豊臣秀吉に敗北したため所領を北軍の前田利家に明け渡し没落(1590年)してしまった。
文禄四年(1595)〇月二十日に卒 法名「壹翁常連居士」
<白倉重高(重治)>
重家の弟、兄重家の小田原籠城の際、白倉城を守る。
(箕輪城二の丸に立て籠もり)
白倉清佐
父重家と共に小田原城に籠城していたが没落後、武門を辞し、農士の身となり二井(新)屋に住し、喜左衛門と名乗り「白倉村の名主」を務める。
白倉常清
信濃へ旅立つ
<信濃への旅たちについて>
信濃における大日堂の記録などから、1620年頃から30年頃と推定できる。
信濃への道筋については、当時の上野と佐久の軍用・物資運搬道として余地峠を越えた。(田口邑経由と北佐久郡誌に記載あり。)
<常清が信濃へ旅ったその後>
重高の子白倉道治その子(重光・道政・定吉・高行)らは、白倉又は別名を名乗り近隣に住した。
<家紋>
児玉党の一党並びに鎌倉時代においては、児玉党団旗を使用していたが、足利上杉氏に仕えていたころ、足利氏より「丸に二つ引き」の紋を授かり家紋とした。
(足利氏は軍功の有った者へ「衣服の紋」授けていた、白倉が「室町衆」と呼ばれていたころ、足利の紋「足利二つ引き」を授かった。)
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家紋は「丸に二つ引き」であり、二匹の竜が天に上る様を意味している紋である。また、麻場城と仁井屋城による双頭の蛇をも意味している。
<参考及び引用した書籍等>
・ 吾妻鏡
・ 甲陽軍艦
・ 箕輪城と長部氏(中世部武士選書)
・ 上毛古戦記
・ 上州古城塁記
・ 新屋村その実話と名物(甘楽町)
・ 北佐久郡誌
・ その他(彦根藩文書など)
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