top of page
  • 執筆者の写真: 白倉直樹
    白倉直樹
  • 2024年3月26日
  • 読了時間: 1分

 

 八重原の里は、戦後間もない頃、戦地から帰って来た人や軍需工場そして満州などから引き揚げて来た若者が大勢いました。


 その若者達の青年活動の一つとして素人演芸会が盛んに行われていて、小唄や音頭を自分達で作詞・作曲して演芸会で唄ったり、農作業の合間や用水普請などの共同作業の時に、酒を酌み交わしながら唄われて来ました。


 作詞は、小唄が芝間の依田泰徳さん、音頭は山根の荒井光之助さん、、当時NHK交響楽団に所属していた叔父の白倉四十四が作曲をしています。


 音頭・小唄とも、八重原から望める蓼科山や浅間山を詞にいれて八重原の風景を表現すると共に、蓼科山から流れてくる水の恵みによる「田植後の青田の素晴らしさと楽しさ」、そして「実る稲穂の喜びや感謝」を唄い込むと伴に、養蚕に汗ながしていた乙女の頼もしさなど、老若男女一体となって村作りをしていた心意気が唄われていて、今でも何処かから聞こえてくるようです。♫♫

  





 
 
 
  • 執筆者の写真: 白倉直樹
    白倉直樹
  • 2024年2月1日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年2月2日


                                             

                                                        

児玉氏・児玉党                      秩父氏


児玉氏は、平安時代中期の公卿 藤原北家流・    秩父氏は、鎮守府将軍・平良文の孫 で桓

藤原伊周の家司だった有道惟能が鎌倉期前武   武天皇六世の平将門を祖とする一族、秩父

蔵野 国に下向し、その子惟行が神流川の中流   郡中村郷に居住し秩父氏を名乗り、子武基 部 にあった阿久原牧を管理住したのが祖であり   が秩父牧を支配する別当となり吉田郷に館

子孫が多く児玉党を名乗り武士団を結成して武   を構え、重綱の代には武蔵野国留守所総

蔵国北端(埼玉県本庄市・児玉郡)を中心に拠点  検校職に就任し大王と呼ばれ勢力を持っ  を置いていた。                        た。重綱の子たちは、畠山氏、河越氏、高  :************************************** 山氏、江戸氏を称し独立し、源頼朝による

                                 鎌倉幕府設立を助けた武士団であった。    

 秩父・上野への拡大

   有道惟行の子経行の娘を秩父重綱(平重綱)に嫁がせ、次男行重及び三男行高を秩父

  氏の養子にし、児玉党秩父氏を興す。

 

 白倉氏の興り

   秩父行重の孫、秩父三郎成季が上野国甘楽郡白倉牧の地頭源重満の二女へ婿入りし、

  1,202年新たに白倉を冠し児玉党白倉氏を名乗る武士団を結成1,221年に白倉三左成

  氏が白倉城(麻場城・新屋城)を築き甘楽郡白倉に拠した。


 <源重満の出自について>

    清和源氏(清和天皇(859年頃から878年頃)の流れをくむ

                            (品籍降下: 皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍 に降りること)

   その、流れは

      貞純親王(清和天皇の子)→源 経基  清和源氏の祖、子に嫡子 満仲(頼朝系) 次男満政など、→源満政          検非違使、左衛門大尉、鎮守府将軍などの官を勤め、尾張へ勢力を伸ばす。→源 重直 尾張源氏の祖(母は源        義家女)として尾張国河辺浦野・ 山田郡などへ 勢力を拡大する。山田氏・浦野氏を名乗る。→ 源 重満  美濃

     の国へも勢力を拡大する。 美濃源氏の祖(妻源行家娘)  

       しかし治承5年(1181年)の墨俣川戦いで敗戦、頼朝へ身を寄せ家臣となり、号を山田太郎重澄とも名乗る。治承6      年3月6(1182年)白倉邑を与えられ地頭となる。  (現:甘楽郡甘楽町白倉)・・吾妻鏡 

     なお、尾張美濃の源氏一門は墨俣川の敗戦により勢力が縮小したことと頼朝と距離を置く姿勢から粛清されて失脚

     してしまう。義父、源行家は木曽義仲へ走る

 
 
 
  • 執筆者の写真: 白倉直樹
    白倉直樹
  • 2023年3月18日
  • 読了時間: 2分

更新日:4月6日

     八重原の元始


    江戸時代初期の用水開削に伴う開発が始

   まる以前の八重原には、羽毛山邑・下ノ城邑

   などの一部の人達、また武田氏の崩落により

   武士から農士に身分をかえた人達が明神沼か

   ら下り流れる水を利用して田畑を耕し稲作を中

   心とした生活を営んでいた。この人達は古開の

   人達と呼ばれている。

    また、当時は八重原郷下居邑と呼んでいた











八重原堰水路図(開発時)

  (水路そう延長55キロ)







水源地(蓼科山西側山麓:大滝)

    

水源:蓼科山伏流水が湧き出している。


水路(現在の川西土地改良連合管理水路へ流れ込むまでの水路:開発時そのまま)




牛首作業小屋

  (田植え前などに、冬季間に傷んだ水路修繕のため寝泊りしていた作業小屋と人々)












作業指揮に出掛ける黒澤翁











 

 牛首小屋跡地絵図









現在の小屋跡











現在の水路












使用されなくなった水路(笠取峠松並木付近)









枡(マス) (地区へ分水する水門:枡幅は水田面積により決められている。写真の枡は大正9年に作成されたもの)

江戸期は、一番枡は藤原田への分水、二番枡は上八重原への分水、以下下流は下セギ(シモセギ)と呼ばれ三番枡は、明神池下枡であった。









<明神池>


 1,664年明神沼に堤を築き、貯水を始める。現在は14万トンの貯水(揚水式)が出来る。

遠望に見える山が水源の蓼科山であり永延55キロを流れ下って明神池に流れ込んでいる。


<八重原諏訪神社>

 諏訪神宮、八幡神宮などが祭られている。

  

   <神楽殿>

  


  <戦期における記録>

    1.945年昭和20年に陸軍士官学校生の疎開先となり、ここでは馬術部100名が馬20    0頭を保有して野営し本土決戦に備えていた。この神楽殿には、その際使用した大きさ一     畳より大きい太鼓が保管されている。


 以降、次回追加致します。

 


bottom of page